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    難波大道

    • 2010.11.17 Wednesday
    • 21:13


    日本書紀、推古21年に「難波から京に至る大道を置く」との記載がある。そのルートを再現するために、大阪市中央区法円坂付近から、真南方向へ1本の直線を、ひいてみる。
    この直線上には、古代難波大道(なにわだいどう)の、存在を示す、いくつかの証拠が点在する。

     

    その1)

    「寺田町駅」付近には「大道(だいどう)」の町名が、今も残る。

     

    その2)

    「松原市水みらいセンター」内の発掘調査では、両側に側溝を備えた「大道の跡」が確認されている。
    (大和川今池遺跡)

    http://www.pref.osaka.jp/tondo/omonajigyo/naniwataido.html

    http://www.city.matsubara.osaka.jp/10,1096,49,224.html

     

    その3)

    「住吉区と東住吉区」、「堺市と松原市」の境界が、ほぼ直線をなしている場所があり古代大道とのかかわりが、あるかも知れない。

     

    その4)

    そして、いつもの公園近辺には・・・、



    金岡神社より「かん太」が、お届けいたします。


     kana-1

    私が今おりますこの場所は、7〜8世紀にかけて複数回にわたり都がおかれた「難波の宮跡」からほぼ真南の位置にあります。

    都の朱雀門より真南に伸びた難波大道(なにわだいどう)は、このあたりで東西方向の道と交わり、明日香方面へ伸びていたものと考えられます。


    kana-2

    それでは神社境内にて、古代大道の名残を探してみましょう。

    kana-3

    拝殿に向かって右側にあります、手水所。横の部分に奉納者の名前が彫りこまれています。ここに「大道町」の文字が、

    kana-4

    少しわかりにくいので、こちらの旗竿を見てみましょう。
    「大道(おおじ)町」と見えます。


    kana-5


    行政区分としての、この小字名は、すでになくなっていますが、地元の生活習慣としては、今なお生きているようです。

    神社の東側にあった、この町名こそ古代難波大道が、このあたりを通っていたなごりであろうと思われます。


    kana-6


    難波から、まっすぐ南下した大道は、神社の南側にて、近世に竹之内街道と呼ばれた、東西方向の古道と交わり、


    kana-7


    はるか明日香方面につながっていたものと考えられます。



     

    近くには、以前にご紹介した、巨勢金岡(こせかなおか)にゆかりの場所もあります。

    http://kantakun.jugem.jp/?day=20080903


    kana-8

    以上、金岡神社付近より「かん太」がお送りしました。




    おまけ。管理者が、ちらっと登場。

    kana-9

    わっはっはあ。

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    • 2019.01.15 Tuesday
    • 21:13
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      コメント
      ありゃ???
      えらいお近くまで来てますやん〜〜〜。
      ついでにうちのくそガキどももお散歩連れてほしかったなぁ〜〜!
      Ψ( ̄∇ ̄)Ψワッハッハ〜♪
      • るーママ
      • 2010/11/18 12:26 AM
      地理も歴史も苦手な私ですが、かん太君は、歴史ある所にお住まいな事だけはわかります。
      きっと、観光バスのガイドさんも、同じ説明をするんでしょうね?
      • ゆめこ
      • 2010/11/18 8:02 AM
      <るーママさん>
      はいなあ。お近くまで、行ってましたあ。
      散歩代行、いつでも承りますよお。
      但し、その間、我がワルガキあずかって下さいねえ。
      長靴はいとかなあきませんよお。わっはっはあ。

      <ゆめこさん>
      あはは、観光バスはちょっと・・。
      こんなところへは来ないと思いますが・・。

      夢子さん、一緒にバスガイドやりましょかあ。
      私、説明案内しますから、歌は引きうけて下さいねえ。
      わっはっはあ。
      • かん太里親
      • 2010/11/18 8:43 PM
      当時の名残りを探し出せるなんて
      まさしく 「ブラタモリ」みたいですね〜
      http://www.nhk.or.jp/buratamori/

      おまけの写真ですが
       おとんの頭の上
      お団子が 刺さってるじょ〜左端の影はかん太くん? 違うかな
      • おっちゃん
      • 2010/11/18 8:58 PM
      成るほどねえ。 この幅広の大道、7〜8間が何故、消えたのでしょうかね。
      難波津に入った舟は、この難波宮に貢物を届けたのでしょうか。住吉付近に離宮もあったそうですが、良く分かりません。
      水スマシのように小舟が難波の津を行き来していた風景を想像すると楽しいですね。
      後世、難波より奈良に向かうには、瓜破村を貫く中高野街道が出来ています。村中でも幅3〜4間程度でしょうか。 7世紀には既に寺院がこの瓜破村に建立されていますが、難波大道の物語はそれよりもっと前ですね。
      • nikkimochi
      • 2010/11/18 9:01 PM
      <おっちゃん>
      ブラタモリ情報ありがとうございます。
      で、おまけの写真、拝殿の前あたりとか、
      画面右端クスノキの横あたりに、と、
      ひっかけたつもりやったのですが、
      さすが「伊豆のホームズ君」には、
      簡単に発見されてしまいました。
      しかし左の影は違いますよお。これ犬やったら、
      秋田犬よりデカイですがなあ。
      わっはっはあ。

      <nikkimochi様>
      コメントありがとうございます。
      隋の使者、裴世清は、たしか大和川を遡りましたよね。それ以後、
      「外国客あいてに、ちゃんとデカイ道、造らなあかん。」
      ってことに、なったんでしょうかねえ?
      時代は下って、乙巳の辺(いっしのへん・大化の改新)以後、
      病弱の孝徳天皇を、難波長柄豊碕宮に置き去りにした、中大兄母子が、
      「あんなたよりないのん、難波へ置いといて、はよ明日香へ帰りましょ。」
      「おかん、もう一回、天皇やりなはれ。」
      とかいう会話をしながら、ここを左折して、
      東向いて帰って行ったのではないかと・・・。
      • かん太里親
      • 2010/11/19 9:58 PM
      左側に? あ!! 人がいる!!
      ぜんぜん 目にはいりませんでした
      だって 写真はいつも おとんが撮ってるって
      思ったから 
      • おっちゃん
      • 2010/11/20 10:50 PM
      <おっちゃん>
      あっ、そうか。
      ぜんぜん、ひっかけにも何にも、
      なってなかったですなあ。
      わっはっはあ。
      • かん太里親
      • 2010/11/21 6:38 PM
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