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    浅香山の狐

    • 2009.01.09 Friday
    • 22:42
    「松本壮吉氏」による「伝説の堺」に「浅香山キツネの話」が掲載されている。

    開業直後の料理屋に上品な男女連れがやってきて、婚礼料理の大口注文をして帰る。指示された場所は市街地からはかなり離れていたが、料理を届けてみると、立派な屋敷に大勢の人があつまり、盛大な婚礼の様子であった。翌朝、器を引き取りにいくと、立派な屋敷どころか、あたりには家一軒なく、草むらの中に食器がちらばっていた。通りかかった百姓に話を聞くと、そのあたりは「浅香山」といい、よくキツネが人を化かす場所であるらしい。

    あさか-1

    え〜〜、「浅香山稲荷」より「かん太」がお届けいたします。

    あさか-2

    件のキツネはその後、ごちそうになった料理屋主人に恩返しをしようと、主人の夢枕にたち商売繁盛を約束しました。主人は夢で見た通り、この浅香山稲荷に参詣し、自宅にも稲荷をまつりますと、商売益々繁盛し、やがて堺で一番の料理屋になったそうであります。

    あさか-3

    浅香山稲荷神社は、JR浅香駅よりすぐ、周りには住宅が密集し、今ではキツネが出没するような面影はない。

    百舌鳥のクスノキ

    • 2009.01.04 Sunday
    • 15:31
    一年を通じて、葉を落とさない常緑樹(ときわぎ)は、
    古来より神秘的なものと、あがめられてきたようだ。
    クスノキもそのひとつで、神社の境内などに、
    クスの大木が威容を誇っていることが多い。

    「百舌鳥のクスノキ」という大木がある。
    西高野街道沿い、御廟表塚(ごびょうおもてづずか)古墳の、すぐ横
    「筒井家」の敷地内にある大木だ。

    くす-1

    「百舌鳥のクスノキ」というと、
    百舌鳥八幡宮の境内にある大木と勘違いされることも多いが、
    あちらは「百舌鳥八幡宮のクスノキ」と、
    堺市公園協会発行の資料は区別している。

    くす-1.5

    同資料によると、「樹齢1000年を超える堺で一番の老巨木」となっている。
    幹回り10mは圧巻だ。

    くす-2

    干ばつの際には、この木に雨乞いの祈りをささげたという。

    くす-3

    え〜現地より「かん太」がお届けいたします。
    概要は、ただいま説明の通りですが、この木のまわりには、
    ぼくのお気に入りのものが、いっぱいおちております。
    それらをご紹介したいと思うのですが・・・・。


    「かん太」の「お気に入り」など、どうせロクなものはないので、本日はこれにて終わる。




    三光橋

    • 2008.12.29 Monday
    • 22:17
    鎌倉時代・南北朝のころ、「孤峰覚明(こほうかくみょう)」という禅僧がいた。ある時「禅の極意は?」と問われ「照顧脚下(しょうこきゃっか)」と答えたらしい。「自分の足元をよく見よ」という意味で、「禅の極意」とやらを、よく言い尽くした言葉であるそうだ。決して「脱いだはきものを揃(そろ)えよ」というような意味ではない。
    なかなかの高僧と見えて、島根県安来市の「雲樹寺」をはじめ、いくつかの寺を創建している。「後醍醐」・「後村上」両天皇の信頼あつく、「三光国師」と呼ばれた。
    その三光国師が、今の浜寺付近に「大雄寺」という寺を築いた。吉野の日雄寺を「山の寺」と呼ぶのに対し、こちらは「浜の寺」と呼ばれたらしい。「浜寺(はまでら)」の地名の由来だ。

    さんこう-1

    え〜〜、現地より「かん太」がお届けいたします。私は今、南北朝時代の高僧「三光国師」の名を残す「三光橋」付近に居ます。
    ここは、紀州街道が「三光川」を渡る位置であります。


    さんこう-2

    「大雄寺」の跡は、ここから和歌山方面へ約3km「南海・伽羅橋駅」の付近とされています。また、以前にご紹介した「北畠顕家奮戦地」は、ここからは逆に大阪方面、すぐ近くであります。

    竹杖日記に、「はまでら」についての記載がある。作者はさすがに、上記の由来をよく知っていたようだ。現地には「今でも寺がある」と思ってやってきた人がいた。そして、その人に対しオモイッキリいやみなツッコミをしている人物がいた。
    おもしろいところなので、そのまま紹介する。

    人々の御国はいづこぞ、浜寺にまうでこしたまへるか、いかばかり寺にや?なんどいふ。・・・・中略・・・・汝は何をかいふ、こここそ浜寺てふ所にはありけれ。さるを、めでたき伽藍なんど立たる所とおぼせしか?さらば、舞子の浜には、とこしなへに少女子が袖振りはへてをるらんとおもほすべし。

    明治の駅舎

    • 2008.12.16 Tuesday
    • 22:18
    子供のころ、堺方面から浜寺公園までは、阪堺線(チンチン電車)を利用した。よって、南海本線の、この駅舎を乗降で利用した思い出はない。

    はま駅-1

    駅の開業は、南海鉄道が泉佐野まで延伸した明治30年。現在のこの駅舎が完成したのはさらに10年後の明治40年、そのとき駅名も「浜寺公園」となった。以来、海浜リゾート地の玄関口として、また高級住宅地の玄関口として、この場所に存在し続けている。

    はま駅-2

    晶子と鉄幹が出会った浜寺公園内「寿命館」の歌会は、明治33年のことだから、まだこの駅舎は完成していない。

    はま駅-3

    建築家「辰野金吾」の設計による、この名建築は、隣の「諏訪の森駅」とともに、登録有形文化財とやらに指定され、すっかり有名になった。

    はま駅-4

    え〜〜現地より「かん太」がお届けいたします。
    私が今おります、「南海電鉄・浜寺公園駅舎」は、明治を代表する建築家「辰野金吾」氏の設計による、ハーフティンバー方式による木造建築であります。完成以来100年を超え、今尚、現役の駅舎として機能しています。


    はま駅-5

    駅前にはまだこんなポストがあったりして、結構楽しいスポットなんであります。

    近くには、作家の「山崎豊子」さんも、お住いのようだが、さてどのあたりか詳しくは知らない。

    あきいえ?ゆきいえ?

    • 2008.12.11 Thursday
    • 23:13
    堺の街より紀州街道を南進し、石津川を超えて、左側に「北畠顕家奮戦地」という場所がある。
    北畠顕家といえば、南北朝時代に活躍した武将で、あの神皇正統記を著わした北畠親房の長男だ。
    あきいえ-1
    戦に強い武将は、歴史上の人気者だ。「顕家」も例外ではなく、「楠正成」「新田義貞」と並んで、この時代の英雄だ。(悪役は「足利尊氏」が一手に引き受けているようだが・・・)


    話変わって、「和泉名所図会」なる江戸時代に発行された観光案内書がある。その中には、この場所について次のように記載されている。

    行家の松・・下石津の川端にあり。十郎蔵人行家は文治二年、此所にて討死するの古跡なり・・云々。

    十郎蔵人は、「(新宮十郎)源行家」のことで、頼朝・義経兄弟の叔父にあたる。おごる平氏をやっつけんと、周りの者を煽動する役柄だが、戦はからっきしヘタクソで英雄とは、程遠いキャラクターとして描かれることが多い。
    史実は「顕家」の奮戦地であるようだが、江戸時代後期の一般大衆は、なぜか「行家」の戦死場所と勘違いしていたようだ。「顕家」と「行家」では150年の時代の隔たりがあるのだが、なぜこんな勘違いが起こったのだろうか?

    その謎を解く鍵が現地にはある。

    おい、「かん太」出番やど!

    ふがふがふが・・今いそがしねん。
    そっちで、やっといて。
    ふがふがふが。


    ええ〜・・「かん太」が出ませんので、私が続けます。
    この場所には先の写真のように、立派な五輪塔と、「顕家奮戦地」の石碑、さらにその左側には「南無阿弥陀仏」と刻まれた墓石風の碑、周りは玉垣で囲まれ、その前には、
    あきいえ-2
    「顕家」の奮戦をたたえる、立派な石碑がたっています。

    これらの石造物、ひとつを除いて、比較的新しい時代に建てられたことがわかります。
    あきいえ-3
    この中で注目すべきは、この一番地味な、「南無阿弥陀仏」の石碑。
    これの裏側に回ると・・・「正徳三年(1713)」の年号とともに、こんな文字が・・・。
    あきいえ-4
    この文字、じつは「行家」ではなく「行冡(こうもう)」であるらしい。
    「行冡(こうもう)」は、「仮に埋葬する」くらいの意味で、この地に散った戦没者の霊を慰めたものだが、決して「源行家」の墓などではない。
    この文字が、先の勘違いの原因となって「行家の松」、などという俗信を生み、寛政八年(1796)発行の「名所図会」の記載となったようだ。

    ・・・ところで、こやつは・・・
    あきいえ-5
    ふがふがふが

    何やらエエモノをみつけたらしく、現地レポートどころでは無いようだ。
    ワガママな奴だ。


    「百舌鳥八幡」と「奥の院」

    • 2008.12.09 Tuesday
    • 22:23
    百舌鳥(もず)八幡宮という神社がある。最近は秋祭りの「布団太鼓」で有名になった。
    何トンもの重さの太鼓台をかついで、この階段を昇降する様子は、なかなか勇壮だ。
    もず-1
    え〜、百舌鳥八幡より「かん太」がお届けいたします。こちらのお宮さん、八幡宮ですから、祭神は勿論「応神天皇」ということになっています。
    もず-2
    これより南の方角に、かっては、このお宮さんの「奥の院」として崇められていた場所があります。

    御廟山(ごびょうやま)古墳は、全長185mを超える前方後円墳で、周濠にかこまれた、墳丘部は巨木が生い茂り、周濠には多くの水鳥があつまり、百舌鳥古墳群の中でも有数の景観を誇っています。現在、墳丘部は「陵墓参考地」として宮内庁が、周濠部分は地元自治体(堺市)が、それぞれ管理をしています。
    もず-3
                     (堺市文化財課・発掘調査説明会資料より)
    地元の言い伝えによりますと、昔むかし近所のお百姓さんが、芝刈りの目的で、この墳丘に立ち入り、この地に住む「八幡大神」に遭遇しました。住居を侵された「八幡大神」は大いに怒ったそうです。この話を聞いた村人たちは、恐れおののき、近くに社を建て「八幡大神」を、お祭りしました。それが、ここ「百舌鳥八幡宮」なのだそうであります。


    その陵墓参考地に発掘調査のメスが入った。
    もず-4
    墳丘の護岸工事に先立つ事前調査で、宮内庁と堺市による共同作業だ。        もず-5
    南側の「造り出し」部分。
    墳丘全体を覆っていた葺き石と、テラス上に並んだ円筒埴輪の列が見える。
    もず-6
    それにしても大木が、その枝を波打たせ、「八幡大神の住処もかくや」と思わせる景色だ。

    続・学校の名称

    • 2008.11.25 Tuesday
    • 01:00
    いつもの広場でお会いする「銀パパ」さんから、おもしろい資料をお借りした。堺商工会議所創立120周年記念に発行された、「地名あれこれ」という冊子だ。

    地名-1

    地名についてウンチクを述べた資料は少なくないが、この冊子のすばらしいところは、市内のほぼすべての地域をもれなく取り扱っていること。そして、それらが小学校の校区毎に編集されているということだ。

    地名-2

    従い、目次には市内の小学校の名称が連なっている。

    地名-3

    さらに、冒頭の学区図にはこの冊子の持ち主様による朱書きがほどこされ、掲載ページが一目でわかる、索引図となっている。これは、咄嗟の調べ物には本当に便利だ。お貸しくださった「銀パパ」さんが、非常に大切に愛読しておられる様子がうかがえる。

    地名-4

    「英彰」のページには、かねてより気になっていた、「地名由来でない小学校名」についての記載がある。

    現在の「中学校」は、戦後の学制改革により、新しく誕生した「新制中学」だ。よって、その建学の歴史をたどっても、せいぜい50〜60年というところだろう。ところが小学校となると、開校が明治にまでさかのぼり、百年以上の歴史を誇る学校が、旧市内には複数ある。

    現在は寺地町西4丁にある「英彰小学校」もそのひとつだ。勿論、「英彰」なる地名は市内のどこにも存在しない。創立は明治34年(1901)というから、日清・日露の両戦争の狭間。この国が対外的に元気であった時代のことだ。「堺商工会議所」発行の「地名あれこれ」によると、初代校長が「英才教育を目指し、『彰かに英でる』を願って」名付けたという。

    さて通例なら、ここで小学校前から「かん太」がお届けするところなのだが、本日は小雨模様のせいか、外出したがらない。したがい現地レポートはお休みだ。

    下の画像は、出演交渉不成立の「かん太」。

    拒否

    雨降ってんのに、小学校なんか行くより、ここで寝転んでる方がず〜っとええがな。

    ずぼらな奴だ。

    「土塔」・・・ピラミッド

    • 2008.11.24 Monday
    • 05:00
    この街にはピラミッドがある。

    土塔-1

    一辺約60m高さ9mのなだらかな四角錐台の山だ。
    「土塔(どとう)」と呼ばれており、このあたり一帯の地名にもなっている。

    土塔-2

    造られたのは奈良時代、現在は堺市の公園内に属しているが、もとは大野寺の境内に仏塔として造られたものであるらしい。

    土塔-3

    最近の発掘調査で13層の階段状をなし、一面に瓦が敷き詰められていたことが確認できた。
    現在は、造られた頃の状態に復元して史跡公園とするべく、工事が進行中だ。

    土塔-4

    部分的に、瓦が敷き詰められた状態が復元されており、造られた当時はこんな風だったらしい。

    土塔-5

    工事現場より「かん太」がお送りいたします。堺市では、ピラミッドの4面の内、2面を建設当時の状態に復元し、残りの2面を発見時のままで保存して、史跡公園とする計画のようであります。


    さて、これと同様のピラミッド状の史跡が奈良市内にもある。
    「頭塔(ずとう)」と呼ばれている。

    頭塔-1

    こちらも同じく奈良時代に仏塔として建造された。
    「ドトウ」という言葉が「ズトウ」と訛り、平安時代には「頭を埋めた首塚」との言い伝えができあがり、「頭塔」という漢字が当てられたらしい。

    頭塔-2

    七段築製で、奇数各段に石仏が配置されている。

    頭塔-3

    建設当時の様子はこんな風であったと考えられている。

    頭塔-4

    これらの仏塔、宗教施設というより、まるでテーマパークのノリだ。


    昔の地図

    • 2008.11.16 Sunday
    • 15:26
    地図かんた1

    え〜〜、自宅より「かん太」がお届けします。
    本日は雨の為、予定しておりました「がっかり名所」の取材は中止であります。
    よって、オトンは昼から「昔の地図」をひっぱり出しまして、何やらゴソゴソやっております




    げんろく地図
    元禄8年(1695)の堺(「はとぶえ会・むかしの堺」より)

    元禄期の堺絵図だ。「むかしの堺」よりお借りした。堺には「大坂の陣」以前の地図は現存しないので、こちらが最古という事になる。「元和の町割り」から約70年が経過、勿論まだ大和川はない。環濠は北・東・南の三方のみで、西側はすぐに海岸線だ。



    ぶんきゅう地図
    文久3年(1863)の堺

    以前にもご紹介した文久(篤姫の頃)の絵図。本屋さんの包装紙になってたりして、最もポピュラーな絵図だ。宝永元年(1704)の大和川付け替えから160年、その間に堆積した土砂によって、海岸線は大きく様変わりして、新田が開け、西側にも環濠ができ、ロイヤルホテルの前の堺港はすでに現在の形となっている。



    めいじ地図
    明治20年(1887)の堺

    大日本帝国陸地測量部による、地形図。復刻版が広く出回っている。阪堺鉄道(現南海本線)がすでに、堺駅付近まで記載されている。勿論「蒸気機関車」だ。鉄道がさらに南進し、晶子や鉄幹が浜寺公園に遊ぶのは、もう少し後の事だ。



    しょうわ地図
    昭和24年(1949)の堺

    「国土地理院」による、戦後間もなくの頃の5万分の1地形図。私が子供の頃には、この地図、まだ現役として活躍していた。実際に持って歩いていたものなので、痛みがはげしい。
    それにしても、戦後の堺は、綾ノ町付近を除いて、建物がまばら。惨憺たる空襲のツメアトだ。

    その後、地形図は2.5万分の1が主流となり、やがてカラー印刷となり、現在では、ネット上に公開され、誰でも無料で閲覧できる。便利になったものだ。




    地図かんた2

    ふたたび「かん太」です。以上、自宅より退屈な退屈なレポートを終わります。

    ねころんで挨拶する「ズボラな」やつだ。


    学校の名称

    • 2008.11.12 Wednesday
    • 22:28
    現在の「中学校」は、戦後の学制改革により、新しく誕生した。私が子供の頃、「旧制中学」に対する「新制中学」という言葉が、まだ生きていた。といっても、この言葉を聞いた覚えがあるのは、明治生まれの祖母の口からであって、大正生まれの父母が使用していた記憶はない。明治生まれの祖父母の世代では、普通に「中学校」といえば、以前の「旧制中学校」のことで、今の「中学校」を表現するためには「新制中学校」という言葉が必要であったようだ。
    この学制改革に伴い、この街では、9校の「新制中学」が誕生した。発足当初は、第一中学・第二・第三・・・という風に呼ばれていたらしい。ナンバースクール(?)だ。その後、番号による呼称をやめ、地名由来の名称に変更されている。

    堺市堺区神南辺町の「月州中学校」、同櫛屋町の「殿馬場中学校」はともに、「学制改革」により誕生した、この街では最も古い中学校のひとつだ。現在、それぞれの所在地付近に校名に該当する、地名・町名は存在しない。
    「月州」は、大和川が運んだ土砂によってできた「附き洲」が、「殿馬場」は奉行所時代の「殿馬場」が語源となっているらしい。

    tonobaba-1

    画像中央の奉行所左の路上に殿馬場の文字が見える。その左下、赤色部分が先日紹介した、妙国寺だ。

    tonobaba-2

    堺市立殿馬場中学校より「かん太」がお届けします。
    こちらの学校は、昭和22年4月「堺市立第二中学校」として発足し、その後、現在の校名に変更されました。旧市街地のど真ん中に位置し、通常の中学校としての役割の他に、近くの堺市立病院の入院患者を対象とした「院内中学」や、諸事情で就学できなかった方々のための「夜間中学」などの役割も兼ね備えた、大変重要な中学校であります。


    町の名はなくなってしまったが、「大和川・河口付近の地理的変化」や、「江戸時代の奉行所の所在」を、由来とするこれらの学校名、これからも変わることなく、受け継がれて欲しいものだ。


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