「極楽橋」と「首切り地蔵」

  • 2011.01.20 Thursday
  • 22:31

え〜、土井川公園の一画より、
「かん太」がお届けいたします。


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江戸時代には珍しく、花崗岩でつくられたこの橋、
「極楽橋」と言います

かって、街の東に存在した「王子ヶ飢(おうじがうえ)墓地
へ向かう葬列が、この橋を渡ったことから、
この名があるのだそうです。

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石橋としては珍しく、擬宝珠・欄干を備えた立派な作りで、

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往時の街の皆さんの、財力が感じられます。

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文久年間の古地図によると、「極楽橋」の東、
北庄村には「
王子ケ飢」「首切り地蔵」の、
名がみえる。

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かん太です。
「極楽橋」より東へ移動し、
「首切り地蔵」の前にやってまいりました。


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追剥(おいはぎ)に襲われかけた、
親孝行な息子の身代わりとなって、
首を切られたお地蔵さまの話が、
「松本壮吉」氏の「伝説の堺」には掲載されています。

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ちょっと中を除いてみましょう。

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ふんふん、このお地蔵様、
たしかに首が切れてますねえ


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以上、「首切り地蔵」前より、
かん太がお届けしました。

王子ケ飢(おうじがうえ)墓地」へ向かう葬列が通過したこの場所、かつては追剥が出没するくらいに、さびしいロケーションであったことだろう。住宅地のど真ん中となった現在では、そのような面影はない。


 

難波大道

  • 2010.11.17 Wednesday
  • 21:13


日本書紀、推古21年に「難波から京に至る大道を置く」との記載がある。そのルートを再現するために、大阪市中央区法円坂付近から、真南方向へ1本の直線を、ひいてみる。
この直線上には、古代難波大道(なにわだいどう)の、存在を示す、いくつかの証拠が点在する。

 

その1)

「寺田町駅」付近には「大道(だいどう)」の町名が、今も残る。

 

その2)

「松原市水みらいセンター」内の発掘調査では、両側に側溝を備えた「大道の跡」が確認されている。
(大和川今池遺跡)

http://www.pref.osaka.jp/tondo/omonajigyo/naniwataido.html

http://www.city.matsubara.osaka.jp/10,1096,49,224.html

 

その3)

「住吉区と東住吉区」、「堺市と松原市」の境界が、ほぼ直線をなしている場所があり古代大道とのかかわりが、あるかも知れない。

 

その4)

そして、いつもの公園近辺には・・・、



金岡神社より「かん太」が、お届けいたします。


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私が今おりますこの場所は、7〜8世紀にかけて複数回にわたり都がおかれた「難波の宮跡」からほぼ真南の位置にあります。

都の朱雀門より真南に伸びた難波大道(なにわだいどう)は、このあたりで東西方向の道と交わり、明日香方面へ伸びていたものと考えられます。


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それでは神社境内にて、古代大道の名残を探してみましょう。

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拝殿に向かって右側にあります、手水所。横の部分に奉納者の名前が彫りこまれています。ここに「大道町」の文字が、

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少しわかりにくいので、こちらの旗竿を見てみましょう。
「大道(おおじ)町」と見えます。


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行政区分としての、この小字名は、すでになくなっていますが、地元の生活習慣としては、今なお生きているようです。

神社の東側にあった、この町名こそ古代難波大道が、このあたりを通っていたなごりであろうと思われます。


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難波から、まっすぐ南下した大道は、神社の南側にて、近世に竹之内街道と呼ばれた、東西方向の古道と交わり、


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はるか明日香方面につながっていたものと考えられます。



 

近くには、以前にご紹介した、巨勢金岡(こせかなおか)にゆかりの場所もあります。

http://kantakun.jugem.jp/?day=20080903


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以上、金岡神社付近より「かん太」がお送りしました。




おまけ。管理者が、ちらっと登場。

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わっはっはあ。

南宗寺

  • 2010.07.16 Friday
  • 22:12
 
かん太」です。
久々に「がっかり名所」のシリーズです



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え〜、私は今、市内きっての名刹、
「南宗寺」の門前におります。
古瓦が練りこまれた土塀は時代を感じさせます。



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境内はワンコ散歩禁止ですので、ここから先は、
オトンの撮影によります。


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龍興山南宗寺は、旧市街地の南端、南旅籠町に位置する、臨済宗大徳寺派の寺院だ。もともとは、街の中央、宿院町にあり、この町第一の禅宗寺院として、町人衆の文化向上に、大きく寄与したらしい。


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慶長20年(1615年)、大阪夏の陣で堂宇は焼失するが、元和3年(1617年)現在の地に再建された。
所謂、「元和の町割」の頃の話だ。
http://kantakun.jugem.jp/?day=20081017


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その後、二代「秀忠」、三代「家光」の両将軍の参詣があいつぎ、山門・仏殿・東照宮が建立され、伽藍が整備されていった。江戸時代を通じて、徳川家にとって重要な寺院であったようだ。


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時代が下り昭和20年(1945年)堺大空襲にて、多くの建物が失われるが、山門・仏殿といった、元和の頃の建物が戦火を逃れ、古田織部の作といわれる「枯山水の庭」とともに、この寺を有名にしている。境内は、緑も多くゆったりとした佇まい。間違いなく、この町一番の名刹だ。

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そのような文化財の話とは別に、この寺に関するもうひとつの欠かせない話題は、寺に伝わる「徳川家康伝説」であります。寺伝によりますと、大阪夏の陣の際、豊臣方の武将「後藤又兵衛」の槍に突かれ、重症を負った「徳川家康」は、この地で息絶え、葬られたのだそうです。その後その場所には、永く「開山堂」という建物が建てられていましたが、昭和の大空襲で焼失し、その跡地には、「伝徳川家康墓・家康戦死埋葬碑」とされる無名碑が、現在も残っているのであります。


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以上、龍興山南宗寺門前より、
「かん太」がお届けしました。


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しかし君、この画像は「若い顔」してるねえ。
古い写真使ったのと違うのん?

気にしない。気にしない。わっはっはあ。



大和橋

  • 2010.01.13 Wednesday
  • 22:21

各地に、「十国峠」「七国山」などという地名がある。

見晴らしの良い場所から、多くの「国」を見渡せた、
ことに由来するするネーミングであることだろう。

さて、この街にも、かつて「十国橋」と呼ばれた橋がある。



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堺の街を南から北へ縦走した紀州街道が、
大和川を越えるところに「大和橋」がある。現地の説明板に
よると、その昔この橋を渡る住吉大社の神輿のかがり火が、
遠く兵庫・明石・泉州の海岸から見えたのだという。

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え〜大和橋より、「かん太」がお届けいたします。かつて、この場所より望めたと思われる「十国」について、考証してみたいと思います。この街では、好天の日、高所より、はるか西方に「明石海峡大橋」が遠望できます。この橋からも、かつては「淡路」「播磨」が見えたものと思われます。また、淡路島と友が島の間より遠く四国「阿波」が望めたものと思われます。南方には「紀伊」の山脈、東方「金剛・葛城」の向こう側は「大和」。北方には、「山城」「丹波」。川の右岸は「摂津」、左岸は「和泉」「河内」、これで十国と考えられます。

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さて、現在の橋上からの景色。川の下流(海)方向は、

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明石海峡どころか、海岸線は埋め立てにより、はるかかなた。
頭上には高速道路が走るという、惨憺たる景色であります。

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上流(山)方向は、はるかに山の稜線は望めますが、

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建物が立ち並び、広大な河内平野を見渡すことは、できません。

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右岸、摂津方向もまた、然りであります。

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かつての、十国橋からの展望は、今や望むべくもありません。

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以上、「大和橋」より「かん太」がお届けしました。


今回はめちゃめちゃ退屈な内容に仕上がった。

「宿院」界隈

  • 2009.11.30 Monday
  • 20:32

このあたりに、住吉大社の、お旅所があった。
「宿院」という。「しくい」という風に発音したらしいが、
私は「しゅくいん」しか知らない。
戦後は、50m幅六車線の大通りとなり、
交差点内に残る1対の石灯籠のみが、往時をしのぶ。

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灯篭には、
上段に「左海(さかい)」、中段に「たばこ」、下段に「包丁鍛冶」。
と刻まれている。
「堺」というと「包丁」が有名だが、以前は「たばこ産業」が盛んで、
たばこの葉をきざむニーズに応えて、刃物産業が栄えたらしい。


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すぐ横には「山之口商店街」がある。

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え〜〜、現地より「かん太」がお届けいたします。
こちらの商店街、大阪市内と比べますと、
気の毒なくらい閑散としており、
週末の午後でも、このように「犬連れ」で、
歩けてしまうのであります。

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そんな中で、この洋食やさん、比較的活況を呈しておりまして、
店前の自転車が、その繁盛ぶりを物語っています。



昔ながらのメニューで、オッサン、オバハン達の、
人気を集めています。
実は、あの「ミミ父ちゃん」もハマッています。

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先日ご案内した、「おおてらさん」もすぐ近くであります。

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それから、このお菓子屋さんも、古くから有名なお店です。

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以上、「宿院」界隈より「かん太」がお届けしました。

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開口(あぐち)神社・大寺(おおてら)さん

  • 2009.11.26 Thursday
  • 22:55

甲斐町東にある「開口神社」は、

古くからこの街の中心をなす場所であったようだ。

伝説によると、「神功皇后の勅願により創建」
だそうだから、ずいぶんと
古い話だ。


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天平の頃、この地に「念仏寺」が建立され、
聖武天皇もやってきたらしい。

所謂、「神仏習合」の始まりだ。 
現代でも「大寺さん」という呼称は一般的だ。


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十二世紀になると、開口・木戸・原村の三社が併合され、

三村明神とも言われたらしい。


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祭神は  塩土老翁神(しおつちのおじのかみ)
     素盞嗚神(すさのうのかみ)
     生国魂神(いくたまのかみ)

住吉大社の奥の院としても、あがめられていたようだ。


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ええ、現地より「かん太」がお届けいたします。

境内の西、山之口商店街側には、あの伝説の
「金龍井」があります。


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古くより、良質の水が湧き出ていたようで、

酒屋さん、豆腐屋さんのお仕事に、深く寄与した
ことでありましょう。


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また、明治になると、境内には女性教育の発端たる
「女紅場」が設立され、その後の「高等女学校」を経て、

現在の「泉陽高校」の発祥となり、


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さらに、「三国丘高校」の前身である、
「府立第二中学校」も、この地に設立されました。


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この場所は、その他にも、この街における

幼稚園の発祥地でもあるようです。

古くより永きにわたり、街の中心であったことがしのばれます。



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以上、「大寺さん」より、「かん太」がお届けしました。



「旧堺港」の「かん太」

  • 2009.09.16 Wednesday
  • 21:36

南海本線堺駅の西側(大浜公園の北側)に、ちょうど漢字の「卯」の字の形をした、入り江がある。
「旧堺港」と呼ばれる場所だ。


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1950年代の終わり頃から、堺の海岸は、埋め立て造成が進み、沖合いへ何キロも伸びた陸地の先端に、あらたな「堺港」が出現した。「旧・・・」という名称は、おそらくこの頃から用いられたのであろう。(新しい港は、その後「堺泉北港」と呼ばれている。)


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さて、「堺」というと、「中世の頃、南蛮貿易で栄えた港の街」
というイメージが強く、「旧・・・」と呼ばれるこの場所が、
「かつて、南蛮船がきた中世の堺の繁栄を象徴する場所だ。」と
勘違いされる向きも多いようだ。


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残念ながら、この「旧堺港」、それほどの長い歴史はなく、江戸
時代も後半、天保の時代になって現在の形が完成したものらしい。



 

え〜〜、現地より「かん太」がお届けいたします。

私が、今居りますところは「旧堺港」と呼ばれる場所であります。


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現在はご覧のように、地元ヨットクラブの係留場所となっており
まして、大小さまざまのプレジャーボートが、その容姿を競って
おります。

 

あのホテルの最上階より望みますと、入り江全体が「卯の字」
の形をしている事が良くわかるかと思われます。


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これより堤防上を、沖合い方向へ数百メートル歩きますと、以前
にご紹介した、旧堺灯台(日本最古の様式灯台)が、その雄姿を
とどめております。
http://kantakun.jugem.jp/?day=20080814



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この付近、大浜公園一帯は、以前には海水浴場をはじめ、水族館
・少女歌劇・お風呂屋さん等が林立する、一大リゾート地であっ
たようです。
そのあたりの状況は、また機会があれば、ご紹介することにいた
しましょう。


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以上、「旧堺港」より「かん太」がお届けいたしました。


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さあ、終わった。はよ、かえろ。
だれか、べっぴんさん、通れへんかなあ?

布忍(ぬのせ)八景

  • 2009.04.24 Friday
  • 22:50
中国の湖南省(こなんしょう)。三本の川が合流して、あの洞庭湖(どうていこ)に注ぐあたりの地名を、瀟湘(しょうしょう)という。このあたりの八箇所の景勝を、11世紀の文人画家「宋迪(そうてき)」が画題に選び、「瀟湘八景(しょうしょうはっけい)」と呼ばれた。
景勝を愛でる文化は本邦にも伝わり、15世紀以後、これをまねて各地に「何々八景」が創設された。中でも、琵琶湖南岸の「近江八景」、現在の横浜市内の「金沢八景」は有名だ。漢詩・和歌に詠まれ、浮世絵版画に描かれ、15世紀以後の庶民文化の高さがうかがえる。
さて、そんな「何々八景」のひとつが、いつもの公園近くにもある。


え〜〜、布忍神社前より、「かん太」がお届けいたします。

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そもそも、この「布忍(ぬのせ)」という地名は、日本書紀に登場する「日本武尊(やまとたける)」の娘、「布忍入姫命(ぬのしいりひめのみこと)」に由来すると言いますから、ずいぶんと古い話であります。但し、神社の創建がいつ頃であるのかは、詳らかではありません。

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古くより、このあたり一帯は、「布忍八景」と呼ばれる景勝の地でありまして、江戸時代には、それらの景勝を、漢詩、俳句、回文で表現された、「八景絵馬」が、奉納されました。当時のこのあたりの、農村文化のレベルの高さを物語る、文化遺産であります。

この「八景絵馬」、レプリカが作成されまして、神社裏の川沿い遊歩道に、設置されています。

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オリジナルは、200センチ×50センチほどのけやきの板で、1枚に二景が収められ、4枚で一組でありました。

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宮裏白桜、孤村夕照、野塘春日、平田秋月、
南山残雪、西海晩望、竹林黄雀、籠池白鴎。


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これら八景が、それぞれの内容を反映した、漢詩・俳句・回文などとともに描かれています。
ふむふむ、ナルホド。なかなか趣のある内容であります。

(ほんまに、わかっとんのかいな??)

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お近くへ、お来しの節は、ぜひ一度ご覧下さい。

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以上、布忍神社裏の遊歩道より、「かん太」がお届けしました。

「仁徳陵古墳」と「かん太」

  • 2009.02.08 Sunday
  • 20:21
羽曳野市の古市から、このあたり百舌鳥にかけて、古代の大王や王の墓と考えられる巨大な前方後円墳が、点在する。「古市古墳群」及び「百舌鳥古墳群」と呼ばれている。大古墳の多くは、早い時代には大和(三輪地方)を中心に築造されていたが、古墳時代中期になると、二上山を超えた河内・和泉に集中する。「崇神王朝(三輪王朝)」とは別の系統の「応神王朝(河内王朝)」が大王となったと考える人が多い。中国の「宋書」にいうところの「倭の五王(讃・珍・済・興・武)」の時代だ。中国・朝鮮半島への進出もさかんであった。

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えー、「大仙古墳(仁徳天皇陵)」前方部にしつらえられました「拝所」の前より「かん太」がお届けいたします。現地の説明板によりますと、後円部の直径245m、前方部の幅305m、周濠を含めた南北長が、793mだそうでありまして、まさに本邦最大の前方後円墳であります。

この古墳を中心に、北側の「反正天皇陵」、南側の「履中天皇陵」いずれも、南北方向を長軸としています。「海上から見える姿が最大となるよう築造された。」と考える方もおられるようです。
(興味お有りの方はネット上で閲覧できる、このあたりの地図や航空写真をご参照下さい。)

この古墳に限らず、前方後円墳の前方部に「拝所」がつくられたのは比較的新しく、明治の頃でありまして、江戸時代には、もっと身近な存在で、「墳丘部で庶民がピクニック」などということも、あったようであります。


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えー、こちらは、墳丘を取り囲む、一番外側の「三重目」の濠であります。
この古墳、「非常にめずらしい、三重の濠に囲まれて・・」ということになっておりますが、江戸時代の資料には、壕は二重にしか描かれておらず、この外壕は明治以後に復元されたもののようであります。


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明治5年、前方部中腹(あの鳥居の上あたりかと思われますが)より、縦穴式石室、組み立て式石棺、甲冑などが出土しました。スケッチがとられ、現物はすぐに埋め戻されたそうでありますが、その時のスケッチに基づいたレプリカが、堺市博物館には展示されています。(興味お有りの方は、堺市博物館にてご覧ください。)

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以上、現地より「かん太」がお届けいたしました。

利休の屋敷

  • 2009.01.17 Saturday
  • 18:54
「世界3大がっかり名所」というのがあるらしい。
     シンガポールのマーライオン
     コペンハーゲンの人魚姫
     ブリュッセルの小便小僧
だそうだ。幸いにも(?)これらすべてに、赴いたことはなく、ガッカリした経験はない。
本邦にも「日本3大がっかり名所」というのがあり、
     札幌時計台
     高知はりまや橋
三つ目には諸説あって、
沖縄の守礼門、長崎オランダ坂、京都タワー、名古屋テレビ塔、仁徳天皇陵
などが候補にあがるらしい。
さてその仁徳天皇陵よりも、もっと「がっかり」する名所が、この街にはある。

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え〜、現地より「かん太」がお届けいたします。
私が今おりますところは、かつて「千利休」の屋敷があった、とされる場所であります。


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「千利休」と申しますと、堺の豪商「魚屋(ととや)」の長男として生まれ武野紹鴎に師事、「わび茶」を完成させた有名人でありますが、その屋敷跡とされるこの場所には、彼が茶湯に常用していた、「椿井」の跡が残っているのみであります。

「千利休屋敷跡」は、「宿院町西1丁」というより、あの「ちく満(ま)そば」の裏側といった方が、分かり易いかも知れない。
写真に写っている景色以外、本当に何もないところで、ガッカリすること間違いなし。実際にいらっしゃることは絶対にお勧めしない。
ただし、すぐ近くのお蕎麦屋さんは、この街では知らない人はいない。



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